「学者=同世代の人がもう働いている時に、パパにお金を出してもらってママにご飯を作ってもらっていた、就職活動さえしたことのない人」と決めつけるくだり(p.188)を読んで愕然とした。学者になるには、何本も論文を書き学会発表を行うなど、一般企業と違った種類の「就職活動」が存在するし、それは一般企業のようにわかりやすい形ですぐに結果が出ない分、精神的にも経済的にも重圧を強いられる。上野千鶴子の世代は今よりも就職が容易だったとはいえ、この種の重圧とは無縁ではなかったはずだ(「大学教授になったのは他に選択肢がなかったから」という上野の謙遜を額面どおり受け取ると筆者のような理解になってしまうのだろう)。学者を「嫌い」なのはよいが、著者がその辺の事情をまったく踏まえないで上記の発言をしているのならば、それは「偏見」の域を超えた著しい事実誤認であるし、むしろ、「就職活動「さえ」」と限定するあたりに、均等法施行以前に女性でありながら就職戦線を勝ち抜いたことへの妙な特権意識が垣間見えてしまう。
同様の特権意識・優越感は、オウム記事の寄稿で「そんなに頭のいい人が、なぜ短大に?」を「なぜ腰掛け就職に?」と訂正されたことに関する見解(p.171)にも表れている。訂正前の文章によって短大関係者が味わう不快感に鈍感であるのは、女性としてのみならず文筆業者としての倫理観に欠けていると思う。筆者のように生きることができない(できなかった)多くの女性に対して「何で私のように生きないの?」と見下すかのような態度こそ、フェミニズムの普及や女性の地位向上を妨げてきた要因に他ならないのだが、筆者がこういうスタンスから論じているならば、彼女の主張についてくる女性はそれほど出てこないのではないか。