政治とメディアとの関わりにおいて、ツイッターがいかなる可能性をもつかを8人の政治家・ジャーナリスト・タレントと対談したもの。
政治家との対談が、ツイッターというよりネット事情一般の話になってしまっているのは無理もない気がする。ツイッターを使った政策アピールや情報公開といった話もしているが、殆どは使用雑感に毛の生えたような話であり、具体的なわりに中身に乏しい。ジャーナリストとの対談の方は、細かい取材活動の話が多いものの、論者ごとのメディア観の違いなどそれなりに面白く読めるところもある。
著者は、ツイッターで政治システムを変えられるかもしれない(p.66)と言うのだが、原口一博氏はアカウントがプロレスラーの名前に似てるとツイートされたときの反応が「非常に民主的でリベラル」(p.23)だったとか、世耕弘成氏と山本一太氏が居酒屋ツイートをしたから「政治のスタイルが完全に変わった」(p.123)だとか、大胆な可能性を言う割にその話の中身は些末なものばかりである。この、大言壮語が著者の人脈界隈の妙にチマチマした話に回収されるというのが、本書でたびたび目にするパターンである。
こんな事例も語られている。2010年1月に、著者は記者クラブ批判のために首相官邸にむけて「史上初のツイッターデモ」を仕掛けたのだという。1万人のフォロワー(当時)に向けてデモを呼びかけると、たちまち「総理執務室の画面のタイムラインが全部、 ”総理、上杉です” のリツイートで埋ま」り、官邸の官僚はどうしていいかわからず、ついに鳩山総理が返事をツイートして「またウワーッと盛り上がった」のだそうである(p.148-9)。この時の著者のツイートをみるとリツイート数は29。少なくはないが、本書の箇所がもたらす印象とはだいぶ違う。
著者は全体を通して「ツイッター 対 記者クラブ・メディア」という構図に則って対談を進め、ツイッターが新たなメディアのインフラになることで新聞・TVの体制に変化がおきると予測している。その理由としてもちだすのが海外のメディア事情である。例えば著者は、
「「ニューヨーク・タイムズ」のみならずアメリカのジャーナリストはツイッターのアカウントを持っていないこと自体が仕事を放棄していると見なされます。」(p.41-2)
と(ゴシック体で一部強調して)述べている。この箇所を読んだ4月2日に、ニューヨーク・タイムズのサイトのトップと政治面に記事を載せている記者の名をいくつか検索してみると、アカウントをもたない記者がすぐ見つかった(Julie Creswell, Allison Kopicki)。ワシントン・ポストのサイトでも何人か試すと、やはりアカウントのない記者がいた(Javed Hamdard, Debbie Cenziper)。では、「アメリカのジャーナリストはツイッターのアカウントを持っていないこと自体が仕事を放棄していると見なされ」るという話は、いったい何に基づいてるのだろうか?
このようにちょっと疑問に感じて調べると、書かれているのと異なる実態が出てくるようでは、およそ安心して読むことなどできない。
メディアの問題に監視の目を光らせるジャーナリストが増え、政府の情報にオープン化を求める動きがより活発化するのは頼もしい。しかし、あまりいい加減な人が関わってくるのはかえって困りものである。