読書術の本。この種の本は沢山出ていて,古典的著作としては,
・『
本を読む本』
がある。結論から言えば,本書は『本を読む本』の足元にも及ばない。
冒頭からして既に冗長である。書店でこの部分を立ち読みした人は買わないだろう。勉強不足の学生が無い知恵を絞って書いた,議論が全く進展しないレポートを読まされているような気分である。
文章もお粗末で,分かりにくい。以下はその例。
(p.124)他人に依存しない時間をとっておくということ。これは,深く考えるために必要な時間であり,空間です。【指示語は何を指すのか?】
(p.143)すぐれた着想を得ることと,記憶したはずなのにそれを忘れてしまうこととは,まったく別の脳の働きです。例えば,同窓会で何かの行事の思い出を語り合って,個人の記憶の違い(…)に驚いたことがあるでしょう。【例示が解説になっていない】
(p.230)海外のメルマガ配信を継続しているのは今のところ日本と中国などで,【日本も「海外」なの?「など」って何処?】
構成が破綻している本の例に洩れず,内容も薄っぺらい。論理的に書くことと論理的に話すことは「まったく別の能力」(p.129)であり,後者はレトリックと呼ばれる手法に基づくからプラトンやソクラテスを読むと良い(p.130)というのは一体どういう了見か。ソクラティック・メソッドとソフィストの詭弁術を混同しているところを見ると,著者がこれらの本を読んでいないのは一目瞭然である。
真偽不明の自慢話も,もはや哀れとしか言いようがない。自分が主催した読書会を,「『朝日新聞』もマネしてくれましたし,」(p.174)などとどうやったら思い込めるのか。朝日新聞の読書会とは,2009年4月から1年間,紙上で行われた「百年読書会」のことで,(
書籍化)もされている。その巻末の「百年読書会が始まるまで」(pp.205-)を読んでも当然,日垣のヒの字も出てこない。
読書術に関する本書の主張について,少しだけ指摘。第1章では,本は正確に読むべしと書かれている一方で,第3章では「自分の土俵で本を読む」(pp.122-)とある。この両者の関係が明確ではない。後者が前者を包摂するというのであれば,それは前掲『本を読む本』での「点検読書」と「分析読書」の関係におおむね相当する(『本を読む本』p.26)。それなら良い。問題は,必ずしもそのようには読めないことである。仮に,正確に読むことと,自分の土俵で読む(執筆者の土俵で読まない)ことが「別の読み方」であるのならば論外である。言うまでもなく,正しい読み方が1つとは限らないからといって,あらゆる読み方が許されるというわけではない。著者の,専門書の誤読と曲解に基づいたいい加減な仕事を見てきた者としては,そんなことしても誰とも「つながり」ませんよ,と言っておきたい。
本書は4年がかりで完成したとのことだが(p.235),目新しいことも書かれていない単なるハウツー本を書くのに4年もかかる,というのはちょっと理解しがたい。そんなに忙しいわけでもないでしょ。しかも本書の一部は,過去の著作の使い回しで,付箋の使い方(pp.137-)やメモの取り方(p.142-)については,『知的ストレッチ入門』(新潮文庫。それぞれpp.46-,pp.98-)に同内容の記述がある。
ちなみに第4章で触れられている「読書会」については,『
ダダ漏れ民主主義』の145〜171ページでも言及されているものの,両者の内容が微妙に異なる。『ダダ漏れ〜』では,
「私が読書会を流行らせよう,と思いついたのは15年ほど前のこと」(p.158)
とあるが,本書では,
「読書会なるものが世間にあるのは知っていましたが,そんなにいいものじゃないだろうと思い,『一人で読んだほうがよっぽど早い』と感じていました。〔中略。改行〕ところが齋藤孝『読書力』(岩波新書)を読んだ途端,考えがかなり変わりました」(p.170)
とある。『
読書力』が世に出たのは9年前だ。「そんなにいいものじゃないだろうと思」っていた「読書会を流行らせよう」と思ってたのかい?
巻末にある,著者のおすすめ本リストは,「読まずに死ねない」(p.237)と銘打ってあるわりにチープだ。というのもその内容が,著者が約5年前に発表した,
「14歳からの〈人生の教科書〉100冊」(文藝春秋2007年1月号,pp.316-)
と大きくカブっているから。子ども向けのおすすめ本を転用しているのである。ちなみに本書82〜92ページの文章も,上記記事のコピーだ。
※2011/12/18追記:レビューを編集し再投稿しました。その理由などについては,コメント欄(投稿日:2011/12/18)を参照願います。