「声に出して読むことの意味」や「古文の響きの美しさ」を見直そうとする動きがある一方で、日本語の危機を訴える書物も多く出ている。過去の日本語にノスタルジーを馳せても、若者ことばの惨状を嘆いても、この日本語の崩壊は停めようがないだろう。格差社会の到来が言われているが、言語の上にも支配者の日本語と被支配者の日本語という格差を生み出す可能性がある。いや、可能性があるのではなく、もはや言語上の格差は確実に出現していると言うべきか。
「次代を担う若者たちを、嘲笑したり嘆いていても事態は少しも良い方向へは向かわないだろう。……教育は重要性を増している」と訴える著者の声には切迫したものがある。
何より我々が今、気づくべきは、「日本語という虚構」についてであり、「日本語」という枠組みを与えられ、恰もひとつの存在であるかのように信じ込まされた「国語教育の」欺瞞についてである。欺瞞という言い方は、近代日本を建国しようとした人々の立場を慮れば、苛烈に過ぎるかもしれない。階層、世代、地域を超えて通じる均質な日本語は明治以降の弛まぬ努力の成果として築かれてきたものなのだから。
ただ、今や、この均質な「国語」は確実に変化し始めており、その内部から大きく崩壊しようとしている。それを押しとどめようとするとき、我々が信じ込まされて来た「虚構としての日本語」あるいは「国語という幻想」が、大きな妨げになっていると言わねばなるまい。何をおいても、国語教育に関わる人たちが、この「国語という欺瞞」に気づき、言語として本来あるべき姿、〈多様性と均質性が両立するような〉日本語をつくり出すことが目指されねばならないのではないか。
幻想として出来上がっている日本語を如何に守るかではなく、国家語が生み出された歴史をもう一度辿り直し、多言語社会、多民族社会のありようを模索する新たな方向性を探ることから始めるべきではないか。