鷲田清一といえば、現象学を援用した身体論を展開したメルロ・ポンティの研究者であるが、
80年代のニューアカの時期から女性誌などでファッション論を連載し、著作をなん作も出して
いるというエッセイストとしてのもう一つの顔がある。そんな著者のファッション論だ。
本書の利点は、何よりもほかの著者の本より読みやすくなっている、というところにある。とい
うのも、これまでの著者の本は、テーマが身体にしろファッションにしろ、お世辞にもわかりや
すいとはいえなかった。文体によるのか明確に議論を措定せずにつらつら綴るというスタイル
によるのか、読みづらかった。ただ今回は高校生のカップルが自分の話に耳を傾けているシー
ンを想像しながら書いたというだけあって、格段にわかりやすくなっている。
本書が立つのは、身体は思っているほど「自然」ではなく、我々は自分の身体を十分に見渡せ
ない以上、<像>(イメージ)としての身体観の上でしか生きざるを得ない、そういった視点だ。
だからこそ、潔癖な身体、スリムな身体という観念上の身体に実態の身体を無理に合わせよう
というときに、そこに「齟齬」が起こる。
また服は、自分にとって絶対的な外なのか?それとも自分にとって内の側面もあるのか?服と
は身体の拘束具なのか、自分が何者かであるということを気づかせ、自分を模るための道具で
もあるのではないか?そうやって読者の中で自明になっていた観念にもゆさぶりをかける。
そう、著者の著作はいつも、「答え」をださない。価値中立的、というよりも、どちらの価値にも入
り込み、往復する。両義的であり、ある意味でカオスなのだ。自明性のほこらの中に安住してい
た読者を外に引きずり出し、不安定で奇妙な浮遊感の中に、ふたたび読者を置き去りにする。そ
のプロセスは不安感をともなうにちがいないが、でもそこから、またなにかがはじまるのだ。