この本で鷲田氏は、いつものように世界中の哲学者を引きながらも、かなり率直にヨウジの服と向き合っているように感じた。「わたしはなぜ、ヨウジヤマモトを着るのだろう?」という帯のとおり、少年っぽく含羞しつつも、「飼い馴らしにくい野郎」にこそふさわしい服だ、と書いているのだ。
また鷲田氏は、モードとはつねに世界をドライブし、すぐに古いと嘲笑するエフェメラルなものだと定義したうえで、ヨウジの服は「時間をデザイン」していると述べる。つまり、彼の服には別の時間軸があり、それを着ていても、外部から何かの役割分担を押し付けられない「自由」さがあるのだと。
と同時に、白洲正子氏の言葉「非風」つまり「正しくない型」を引き合いに出し、ヨウジの服は「いかがわしい服」だとも喝破する。それは、アシンメトリーな形や切りっぱなしの裾、ぶらさがる意味不明な布、というあのデザインからも明らか 。しかも色は「翳りの深さ」をも含めて「すべて包みこむ抱擁の黒」。
とりわけ、「女」という性に踏みこんだ「女性的なるもの、あるいは埋められぬ隔たり」の章は読みごたえがあった。ヨウジは背中からデザインしていくことで有名だが、彼にとって女性とは「通りすぎるひと、去ってゆくひと」だという。なるほどランウェイを歩くモデルのスナップ(最高の時期だったと言われる90年代中心で、118点の写真も大変見ごたえがある)は、圧倒的に後ろ姿が多い。
「たかが服、されど服」豪奢な王族の装束をまとった役者に、逸民の迫真性は演じられるか? 確かにヨウジヤマモト寄りの本ではあるが、身体とは、服とは何かという根源的なことを考える哲学入門書とも言えると思う。