前半はありきたりで(若い二人のアメリカ女性が旅先で、感覚派でロマンティストのクリスティーナは即座に、知性派で堅実主義のビッキーも警戒しつつ結局は、一人の画家に誘われ関係を持つ)、うんざりして観ていた。あのウディ・アレンが何と陳腐な映画を、、、という思いを抑えて。
が、後半画家が自殺未遂をやった別れた妻を病院から連れ戻したところから、映画は俄然面白くなってくる。
創造と狂気、多様な愛の形、安穏とアメリカ的物質主義への疑問。カタロニアの風土と「人生は短い、愛は必ずしも成就しない、だからロマンティック」を信条とする男の熱情が、うら若い、無垢なアメリカ女性をゆさぶる。
人はここで初期H.ジェイムスが追及した、成熟・経験・退廃のヨーロッパと未成熟・未経験・無垢のアメリカとの対立・対比というテーマ(「デイジー・ミラー」「ある婦人の肖像」)を想起するかもしれない。狂気が創造の触媒となることも、何となく分る。
同性愛関係の奥深さについては、ヴァージニア・ウルフの愛人でもあったヴィタ・サックヴィルー=ウエストの伝記
ある結婚の肖像―ヴィタ・サックヴィル・ウェストの告白 (20世紀メモリアル)を読めば、画家の元妻とクリスティーナの関係もすんなり理解できる。
監督アレンは実に多くのテーマを本作品に投げ入れたが、安穏と物質至上主義、形骸化したアメリカピューリタン倫理の批判だけははっきりしている。テニス、ゴルフにうつつを抜かし、機上のノートパソコンでメッツの野球ゲームが観られることに狂喜するアメリカ男達の空疎なアホぶりが随時描かれる。が、愛とは、人生とは、真の幸福とはについては、映画を観る人が自分で考えていくしかないとしている。
バルセロナに着いた時の無邪気ではじけるような二人の笑顔とは対照的に、帰国した彼女達の表情は重い。旅であじわった体験の重さを物語っている。
二人のアメリカ人女性役も揺れ動く心理をそれなりに好演しているが、画家の妻を演じたぺネロぺ・クルスの迫力が圧倒的。