この著者は実名でAmazonのレビュワーになっているらしい。「
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)」のレビューが納得できなかったので、反論をコメントしたところ、ちょっと論争になりかけた。
それまでこの著者の本は読んだことがなかったので、論争に備えて本書を含め何冊か手にとって見た。読みやすい文章なのですぐ読める。その結果わかったことは、この人の本質は「反知性主義」なのだということである。
「『大衆批判』なるものは、多数を敵に回し、自らを危険に追い込む行為である。だが、人が多数派に迎合してばかりいたのでは、本当の衆愚政治になってしまうだろう。人には時に『嫌われる覚悟』も必要なのである。」
崇高な志である。真実を述べて誤解を恐れず。著者は本書の各所でくり返すが、本気でそういっているとはとても思えない。
なぜなら本書が批判するのは大衆そのものではなく、右翼左翼の「知識人」であり、フェミニストであり、ポストモダンの批評家であり、とにかく「小むずかしいことを述べている連中」でしかないからだ。
その批判も、必ずしも適正な批判ばかりではない。たとえば「政治と研究をごっちゃにするな」という傍らで、平気で他人の非政治的言説を政治的に解釈する。例を挙げるなら、著者がよく批判の的にする「江戸ブーム」。
「京都の祇園の舞妓、・・・、その背後には旦那と芸妓との擬似恋愛がある、徳川期的な売春文化の残滓であって、リベラルはとしては、本来否定すべきものではあるまいか。」
「江戸ブーム」の学者や文化人がすべて「リベラル」というわけでもないだろうし、それらの人々が「リベラル」な考え方を持っていたとしても、それだから祇園の舞妓を批判しなければならないというわけでもない。これなどは「政治と研究をごっちゃにする」言説の典型例である。
そのほか、著者の主張を一つ一つ検討してみると、責任を問えることではないことに責任を問うていることが多い。
たとえば日本の左翼は天皇については批判しないと著者はいう。下手に批判すると右翼に攻撃されるからだ、ところがイギリスの大衆紙はイギリス王室を徹底的に風刺し笑いものにする、少しはイギリスの大衆ジャーナリズムを見習え、と著者は息巻く。
しかしイギリスと日本とでは自ずと王室の位置づけが異なる。イギリスの現王室はハノーバー朝を起源とし、その後もドイツの王家公家と姻戚関係が深く、王室自身がナショナリストの槍玉に上がることが少なくなかった。万世一系的な日本の皇室とはちがって、イギリスでは王室そのものが国際的なのである。イエロー・ジャーナリズムの標的になるのは当然であろう。
本当に「大衆批判」をするつもりがあるなら、ニーチェのように大衆の価値観やモラルを逆なですることも辞さぬ覚悟が必要であろう。しかし著者がここで述べていることの多くは、「こいつ、えらそうなこと言ってるけど、本当はえらくも何ともないんだぜ」という、大衆的なルサンチマンに満ちたこき下ろしでしかない。
徒党を組もうというそぶりが見られないことだけは評価できるので、星3つ。