ベルトルト・ブレヒトはかつて、「何が美しいのか?」との問いを自ら立て、「美しいのは、ひとが困難を解決するときである」との答えを示した。
ささやかに、この本は提案を行う。思考や生き方をかたちにする活動をアートと呼んでみてはどうだろうか、というのがその提案だ。困難を解決するために、考え、生きていく人間の活動は美しいだろう。
人は、考えていることをそのまま何らかの媒体にのせてしまうことなど出来ない。この本では、何らかの媒体には収まりきらない活動を展開している人間に問いを投げかけることがなされ、8人のアーティストの思考が語られる。そこで彼らは、自身が製作してきた媒体を通して充分には語ることのできなかったことを含めて質問者が投げかける問いに応えることになる。
彼らは、成功を求めるのでもなく、独自性を求めるのでもなく、疑問を抱えながらも生きていくという否が応でも向き合わざるを得ない困難な課題に対してそれぞれの仕方で解決を行っている。抱えている疑問が異なるのだから、各々で解決の仕方が異なるのは当然だ。だから、彼らが創作の際に用いる媒体が異なるのも当然だ。とはいえ、彼らが創作の媒体として用いるのは、絵画でも写真でも音楽でもパフォーマンスでもない。彼らがものを作るとき、そのような媒体にのみとどめてしまうことはどうしても出来ないようだ。
活動を展開している領域も異なるのだけれども、彼らには、作品よりも活動の方が大きいという共通点があるだろう。いいかえれば、彼らの活動の一つとして作品をつくることがあるように見えるということだ。また、作品のみを見るよりも、様々に展開されている彼らの活動を見た方が面白い。なぜなら、彼らはどのように生きているかをおのずから作品化してしまっているからだ。
質問者は、ある意味では下世話だが、読者としては知っておきたいことを尋ねてくれる。どのような子ども時代だったか?どのような経緯でアーティストとなったのか?どのようにして現在の生計を立てているのか?といった質問だ。当然のことながら質問に対する答えはそれぞれで異なる。そのような質問を通して、彼らの思考が徐々に明確になってくる。
鑑賞者はアーティストの作品のみを見れば良いのだと考えるならば、こうした質問は鑑賞者にとって不要のものだろう。しかし、ここで質問されている8人のアーティストの作品は、発表される媒体からはどうしてもはみ出すものを自ずと持ってしまっている。だから、現在どのようなことを考えて生活しているのかといった質問は、彼らの考えていることを明かしてくれていると同時に、彼らにとっても重要性をもった問いであったはずだ。また、そのような質問は、読者にとっても誠実に向き合う価値のあるものだ。
経歴も志向も異なる彼らの発言を読みながら思わぬ共通点を見つけることが出来たことも、この書物を読むことで得た収穫の一つだ。石川直樹と山川冬樹からは、自身の表現欲求よりも彼らを取り巻く世界に重きを置く姿勢が共通しているように感じた。対して、下道基行と三田村光土里と志賀理江子からは、自身の感覚を重視する姿勢が感じられる。また、いちむらみさこと遠藤一郎には、周囲の人々と共に活動することを通して何かを生み出していこうとする姿勢を感じる。高嶺格は、僕にとっては他の人物との共通点を見いだすことの難しいアーティストだった。
人の思考を具現化する行為をアートと捉えるならば、作品をつくり続けているアーティストの思考にこの本を通して触れることは、創作を行っている人間にとっては当然のように得るところが多いものだろうし、現在を生きるという土台を共有できていると強く感じられるために僕のような創作を行っていない人間にとってもものすごく得るところが多い。
あるいはこの本は、現代を生きるという困難を解決する思考や活動をかたちにしていくことを読者に対して促しているのかもしれない。そうだとすれば、この本は、ささやかどころではない、恐るべき提案をしていることになるだろう。
ブレヒトは次のようにも書いていた。「困難には深浅があり、持続の長短があり、大小があり、重要度の差異がある。困難の解決は、まったくそのつど異なって美しいのであり、永遠に美しいのではない」。確かに、この本に登場する8人の持つ美しさは、永続性を持つものではないだろう。しかし、彼らの思考や活動は、まさに現在において美しさや重要性を持っている。また、同時代的に彼らと共にあろうとするこの本は、まさにいま、重要性と美しさを持っている。