「しろばんば」は井上靖氏の代表的な作品。私は子供の頃初めて読んで以来、もう何度となく読み返してきた。
「小説を読む」というより、おぬい婆さんやさき子、蘭子といった小説の中の人たちに、
「会いに行く」という感覚のほうが強い。
井上靖氏の作品は、どれも人物の会話に個性とユーモアがあって、生きているような生活感や情緒がある。
人の匂いや温もりに、小説の中の人物であることも忘れて懐かしさを感じてしまう。
主人公・洪作の家族の間には、色々な「大人の事情」があり、その関係も少々ギクシャク。
育ての親のおぬい婆さんと、実の母や叔母のさき子は互いに悪口を言い合って、
幼い洪作を右往左往させることもしばしばだった。
が、彼らは互いにその「いがみ相手」がいなくなった後は、決して悪口を言わない。
「母が、亡くなったおぬい婆さんの悪口を言わず、洪作は嬉しくなった」
というシーンには、読んでいるこちらも一緒に嬉しくなってしまう。
知らない間に洪作と同じぐらいおぬい婆さんに愛情を感じていたことに気づかされ、
また、母にもおぬい婆さんに対する感謝と、潜在的な愛情があることにホッとするのだ。
洪作は成長するに従い「世の中には憂きことが多い」と気づきはじめるが、決して退廃するわけでもない。
それは、根底にある人間の愛情を、彼が感じてきたからではないだろうか。
この小説の最大の良さは、人に対して温かく、ポジティブであるという点。
井上靖氏の文体は飾りなくシンプルだが、それゆえ、淡く広がるような感動を与えてくれる。