近著「東京人生」には「偶然出会うことが重要だね。探すのではなく、向こうからくる。子どもも、女も」ってあるけど、それにしてもよく出会ったな、さっちん。この表情!この動き!こんな顔カメラに収めるアラーキーも、もちろんすごいんだけど。でもさっちんはシンボルであって、ほかの子も一様に、その表情には好奇心、たくましさ、みなぎる生命力が感じられるんだよな。明日への希望っていうかさ。それはいまの「かわいい」ってのとは違って、時折、その表情には怖さすら感じる。視線の強さに思わず顔を背けちゃうっていうか。こちらの矮小さが見透かされちゃうようで怖いんだよね。子どもって無垢で純真だけど、無知で邪悪でもあってさ。おとなは繕って巧く生きてるから、予測不能、制御不能な子どもって存在を時に持て余すんだよな。いまの「かわいい」ってのは、断然自分優位で、小さくて、華奢で、か弱いものに対する嗜好だからね。アラーキーがあとがきで書いてるように、それを時代のせいにしちゃいけないんだろうけど、明らかに今の時代にさっちんはいない。それは子ども側ではなくて、子どもをどう捉えるかっておとな側、おとな自身の問題。やっぱ、こっち側がアラーキーじゃなきゃ、今も昔も“向こうから来ない”んだよね。
それにしても、鼻くそほじったり、あばら浮かせてガイコツの真似したり、男の子同士で無邪気に抱き合ったりなんて写真は、きっと誰もが、かつての自らの記憶を呼び起こすよね。団地アパートの窓に所狭しと干された洗濯物や、紙芝居屋のおじさん、三輪トラックっていった背景とともにさ。
巻末の若かりし日のアラーキー、そのおどけぶり、シャイな表情がさっちんソックリでご愛嬌である。