翻案が時に単なるリライトではないかというくらい元ネタの文章そのまんまなことがあるこの作家の「癖」は、その死後に一部研究者やジャーナリスト等から攻撃されている。元ネタとの読み比べは今後の楽しみに取っておくつもりの僕はこの点については判断保留だが、誰でも聞いたことのある「山椒魚」「黒い雨」「ジョン万」がこのような疑惑を指摘されている一方で、本書所収の三作品の中では僕の知る限りそのような疑いをかけられていない二作品の方に作家の力量を圧倒的に感じたのも事実だ。
まず「さざなみ軍記」だが、平家の少年が源平合戦で落ち逃げていく様を描いたラストの切れ味と余韻は名人芸である。また、戦時疎開中に出会った少年達とのお喋りからタイムスリップ物語二つを空想して、一つを途中で切り捨てて現実に戻り、また別の物語世界に没入して、そのまんま終わるという「二つの物語」も天才技の作品である。虚実の間に遊ぶ様はそのまんま小説と随筆の間を行き来してみせていることにも通じるのだが、これらの作品を読んで僕は志賀直哉のことを思い出した。実際、井伏が志賀直哉のファンだったということを弟子の河盛好蔵が回顧しているが、これらの作品の無駄を削ぎ落とした文体と構成力は確かに志賀直哉クラスのものだと思う。
そして何よりも大事なことは、両作品が戦争論として構想されている点である。(「ジョン万」で描かれた日米国民の交流も、昭和十二年発表というタイミングを考えるとある種の態度表明と読める。)「さざなみ」のラストに描かれた平和な小休止に戦いの予感が漲る緊張感は、昭和十三年という発表年を考えると示唆に富むし、「もうこんな惨酷は止してもらいたい。」という「二つの話」ラストの一見平凡なメッセージに強い説得力が備わっているのも、作家の腕の成せる業だろう。