人は生まれた瞬間から小さな生と死を繰り返して終末へ向かって歩いて行く。この4or5人の少女たちは、それぞれの「前世」を抱えながら、桜丘女子高等学校という小さな世界に「生」を受け、軽音部=放課後ティータイムという時間を過ごしていく。それは何も変わらない日常、「現実離れが過ぎる」と言われるほどにユートピア的な小天地での理想的な時間にも見える。だから「空気系」「日常系」とも評されるのだろう。
しかし、彼女たちは周りの人をいやが応にも巻き込みつつ、自分もさまざまな影響を受けて過ごしている。四季折々の美しい風景――だから、この作品が「京都」という独特の風をもつ街を舞台と想定して描かれたことが、とても似つかわしく感じられるのだ――と種々の学校行事、そして友人たちとの日々の中でちょっとずつ成長していく。それはあまりに小さな成長で、だから少々違和感を感じるほど、登場人物たちは時折「みんな成長してるんだな」「みんなが扉を開いてくれる」と発言する。
ひるがえって、さまざまな映像作品で少年少女の成長――もちろん大人になっても人は成長を続けていくが、その度合いはずっと緩やかだから、少年少女の急速な成長がドラマになりやすく、かつまた大人はすでに経験しているから、そこから自分の姿を見返すことも可能なのだが――が描かれるとき、宇宙や異次元、荒れ果てて滅びかけた地球などといった、自分の生死を賭けなければいけない大冒険がひかえた世界で描かれることが多い。あの宮崎駿作品のことごとくがそうではないか。
もちろん、そこから汲み取るべきものを汲み取ることは十分可能であるし、たとえば「[
風の谷のナウシカ」のように、地球と人類と文明に対する黙示録的壮大さをもった考察も可能である。この作品でそれを期待するのは無理というものである。また、人が新しいステップに踏み出そうとするとき、それは異次元の世界への旅立ちのように期待と不安とが交錯するものである。そのとき、宮崎駿らが描くようなスーパーヒーローたちに自分をなぞらえて、自分で自分の背中を押す人も少なくはないかもしれない。それにしても、日常の何気ないできごとややり取りの中に、ゆっくりと成長を追っていく話は、これまでにあまり類を見なかったものではないか。
空気系とか日常系とか言う言葉が使われるとき、私はそこにそこはかとない軽蔑的なニュアンスを感じる。だが、多くの人は日常の中で生を受け、死を迎える。それを、ある評論家の言のように「退屈な日常」と、あまりにおおざっぱにくくってしまうのは、この作品を空気系・日常系といささか軽蔑的なニュアンスで評価する以上に、日々をちまちまと生きる普通の人々への侮辱ではないのか?
彼女たちは3年間という限られた時間の中で「卒業」という形で、小さな死を迎え、「おくりびと」にもなる。むしろそうして見たとき、このシリーズ、実は宮崎駿の一連の作品にさりげなく対峙する巨大な存在にも見えてくるのだ。
だからこそ、その主人公たる少女たちの次の生(さしあたりは、大学生活か)、そしてその後も繰り返し繰り返し続いていく小さな生と死が、困難はあっても幸せであって欲しいと願うのである。それは彼女たちが私たちに向かって、今の時代の幸せの姿を具現化してくれたことに対する返礼でもある。