主人公の楠木正行(この忠君愛国な名前が皮肉である)は3年前、ふと働くのが嫌になってミュージシャンを辞めた。以来、酒浸りの毎日を送っていたら、ついに妻の夏子が家を出ていってしまった。散らかった部屋に転がる「五寸ばかりの金属製の大黒様」は珍妙な面つきと言い「自立できない」点といい、自分そっくりで全く不愉快。自堕落な生活にピリオドを打つべく、ついに今日こそはこの大黒を捨てようと決意した・・・ユーモラスな語り口と奇妙な形で噴出する鬱勃たる感情が話題を呼び、日本近代文学の伝統であった私小説を現代に再生させたと絶賛された町田康の処女作「くっすん大黒」ほか1篇を収録。
一見デタラメなようでいてリズミカルな地の文にそこはかとなく漂う詩情、上方落語や漫才を彷彿とさせるキビキビとした会話の心地良さは、絶品である。八方破れの主人公がどこかシャイな点は高橋源一郎を、登場する中年女性が揃いも揃って横暴で自己中心的でヒステリックな点は筒井康隆を思い起こさせる。
表題作主人公の楠木は大黒の捨て方など些末なことには異様なほどに粘着するくせに、日常生活を無難に送るための世俗的な知恵は決定的に欠落している。その意味で彼は落伍者、生活破綻者、社会不適応者であることは疑いないのだが、彼の社会に対する醒めた視線は存外に的確で、その諷刺精神は意外に真っ当なものだったりする。はっきり言って、彼が行く先々で出会う俗物たちの方が明らかに人間として終わっているのである。こんな奴らに媚びてまで生きたくない、と思っている彼はあえて社会的成功に背を向けていると言えよう。この社会に対して意味のあることを決して行うまいという、徹底的な無為・不毛を心に固く誓っているかのようである。
つまり楠木を突き動かしているのは凄まじいまでの反骨精神である。クールなパンクバンドをやってファンから拍手喝采を浴びるなんてのは、本当の「パンク」ではない、という認識がそこにはある。「愚にもつかぬたわごとをレコードに吹き込んだり、命じられるままにカメラの前で右往左往したり飛んだり跳ねたりという三年前までの自分の仕事」は真の意味での「反逆」ではない、と。
しかし町田康は「私小説」の形式を導入することで、話者・町田康と主人公・楠木正行との距離を巧妙に測定し、楠木の鬱屈と反抗に満ちた自意識過剰な語りをも笑いの対象にしている。これは言うまでもなく町田康自身のナルシシズムを相対化する作業に他ならない。この辺り、やはりタダモノではない。