この原作の絵本、子供が小さい頃によく読み聞かせていたものだ。
言うまでもなく、絵本というのはヴィジュアル芸術である。イメージが限定しているものを、あえて映像で動かす(それも実写で)となると、原作の世界観を壊さずにスケールアップさせるか、原作を解体してまるで違う世界観を構築させるかということになるであろうが、本作は紛れもなく後者である。
ただ、ジョーンズ監督がセンダックの絵本を下敷きにして、いったい何を訴えたかったのか今ひとつ判然としないのが辛いところだ。
父親のいないマックス少年は、姉に疎まれ、母を困らせる。空想癖もあるようでお話作りにも長けている。このように冒頭に描かれた、構ってもらいたい年頃の少年の孤独感を描いた一連のシークエンスが、かなり紋切り型である。
では、マックスが漂着した島“かいじゅうたちのいるところ”に移ってからはどうか。画面の色調は暗いトーンが引きずられ、そこではかいじゅうたちの「トラブル・ストーリー」が展開している。マックスという「外来種」が訪れることにより、彼中心の新たなストーリーが始まるのではない。元から繰り広げられてきた(そう考えるしかない)「トラブル・ストーリー」に、出任せから王として君臨(?)することになったマックスが参加するという形である。かといってこの映画は「オズの魔法使い」や「千と千尋の神隠し」のような冒険譚やファンタジーにはならない。マックス少年の成長を描いたビルドゥングス・ロマンといった趣とも異なる。「異世界」でありながらも「こちらの世界」にいる人間たち同様に、鬱屈としたもめ事・悩み事を抱えながら生きているかいじゅうたちのもとで、いっしょに悩んで翻弄されるのだ。
実はここが原作とは大きく異なる点である。原作においては、マックスと戯れるだけの愉快で可愛らしい単純明快な存在でしかなかったかいじゅうたちが、映画では名前が与えられ、英語でしゃべり、性格付けまで施されている。マックスの妄想(あるいは夢)の産物であろう「異世界」は、「こちらの世界」と何ら変わらない悩み多き社会として描かれている。つまり、身近な人間たちの悩みやもめ事を常に目撃し、自分自身も傷つけられてきたマックスのその体験が、「異世界」のかいじゅうたちにそのまま乗り移っているのだ。
小さな共同体の中で、仲間との協調性や自らの居場所について悩むかいじゅうたちの姿に、私は最後まで違和感を抱き続けていたのだが、何よりもこのかいじゅうたち、卑屈なもの、内向的なもの、自分勝手なもの、嫉妬深いもの…みんなあまりにもネガティヴで暗すぎる。マックスには、そんなかいじゅうたちの共同体を巧く治める力など持ち合わせていない。原作では、自由自在にかいじゅうたちを操れる文字通りの小さな王様だったマックスも、映画では最終的にただの子供として何も変えられないまま去っていくことになる。ここに至るまでの他愛のない悪ふざけ(?)が深刻めいた話の展開にそぐわず、空回りしていてまだるっこしい。
最後に一つマックスが気付いたこと。それは、もめ事を解決させる最終手段にはママの存在が必要なこと。マックスにとって唯一信頼できるのは、一番近しく愛しい存在であるママであって、ママこそがマックスの「王」であるということ。
さて、マックス自身のホームシック(「おうちに帰りたい」「ママに会いたい」という望み)はあまりにもあっけなく解決するが、(妄想の中の)かいじゅうたちの「トラブル・ストーリー」は、諦念と共にやるせなく放り出されたままになっている。これではこの作品から完全なカタルシスを得ることは叶わない。
生きづらく、悩みだらけの人生を受け入れて強くなれというのが監督のメッセージなのか。
しかし、殺風景な舞台で、生活感を感じないかいじゅうたちに、人間性を持たせて演じさせるのには相当な無理があると云わざるを得ない。私が最後まで違和感を抱き続けた所以である。お話作りに長けたマックスであれば、もっと破天荒なストーリーが展開されてしかるべきだと思うのだが。
ティム・バートンが描くような、極彩色のファンタジーにはしたくなかったのだろうが、それならばもっと観る者をぐっと惹き付ける、ジョーンズ監督なりの仕掛けがあってもよかったのではないか? 子供向けの絵本を題材にしておきながら、この映画はもはや完全に大人向けになってしまっているのだから…。
かいじゅうたちの着ぐるみの出来や雰囲気が良かっただけに、勿体ない限りである。