つくづく葬式とは奇妙な儀式だと思う。それが盛大であればあるほど、参列者が多ければ多いほど、追悼の念とは裏腹に滑稽さと白々しさを感じてしまう。本人がもはやいないというのに、何をしたところで故人が喜ぶわけがないではないか。
にもかかわらずわれわれが葬式をやめないのは、それが死者のためにではなく生者のために行なわれているからであろう。葬式はすでに死んだ死者のためにではなく、これから死ぬであろう生者のために演じられる。自分が死んだときにもこのような宴を催してもらえるという幻想を抱かせるために。葬式とは死後の夢を見させるために仕組まれた喜劇であり、だれもが故人のためにではなく自分のためにその喜劇に参加し涙する。
仏教評論家ひろさちやが書いた本書によれば、そもそも葬式は仏教とは関係がないそうである。さもありなんと思った。こんな世俗的な儀式をお釈迦様が奨励するはずがない。そもそも仏教とは輪廻転生の思想なのだから、個人の死という我の問題をそれほど大きく扱うわけがない。仏教との癒着が日本の葬式の大きな問題点であると著者は指摘する。
「わたしは、死者を幸せにするためにその人をいつまでも忘れないなどというのはインチキ宗教だと思います」「遺されたものがほんとうに忘れることによってしか、死者は幸せになれません」「わたしたちにできるいちばん大きな供養とは、忘れることなんです」と著者は言う。死者とは「かつてはいたけれど今はいない人」のことであり、死とは「過去における有と現在における無」のギャップのことである。つまり死は有という背景(過去)の上にしか描くことができない。有という背景(過去)を消してしまえば(忘れてしまえば)死は消え、死者は死者ではなくなる。
「死んだ後は自分のことは忘れてほしい」という境地にはなかなか達することができないが、葬式という儀式に疑問を投げかける視点を提供してくれる一冊である。