網野菊は志賀直哉門下の女性作家です。ご存知の方は少ないはずです。網野の名は、文学関係の目録でさえ記載されているのが稀ですから。
網野を知ったのは、筑摩現代文学大系所収の一冊に壺井栄・幸田文と揃って作品が入っていたからです。ところが結局、網野作品だけが気に入ってしまった。
で、講談社文芸文庫の作品集も増刷しないのかと落胆していたところの、本アンソロジーの未知谷からの出版だったのです。文芸文庫との収録の重複もありますが、文芸文庫版が入手し難い今、あまり問題はないかと。
網野作品は、今西村賢太さんのおかげで脚光を浴びている「私小説」の一種です。但し網野作品は、現在の読者からしたら幾分辟易ものの、凡庸な記述に終始しています。「項目」にさえならないのも女性学の「研究対象」にしかならないのも肯ける出来、とここで敢えて言っておきます。
ですが一方で、この欠点を補って余りある豊かな「行間」も感じられます。この「行間」は、実は網野の欠点である「色盲性」と表裏一体のものです。 今言った「色盲性」とは、語り手の視点の単一さ故に、他の視点なら捉えられたはずの対象をそもそも感じないことです。ちょうど、犬が赤色を認識できないように。もともと「(当時の)女」とはこうなのだ、というふうに。網野作品の語り手、そして主人公はそんな「色盲」の生を、疑らずに実直に生きている。それが例えば、語り手による愚直な程の主人公の感想、印象の記述の列挙なのです。だからこそ読み手には、語り手に見えず読み手には見えるものを明確に意識することができます。これが網野作品の花、「行間」なのです。網野にしてみたらこんなのきっと不本意な花に違いありませんが。
実はこの「色盲性」の存分な働きこそが「私小説」なのだ、と提案してみることにします。これも志賀直哉になると「世界は誰の目にも白黒だ!」位に図々しいのですが、網野作品にはそういった図々しさはない。優れている所以はそこに尽きる、と思うのです。
ところで、先に「辟易もの」とまで言ったのは、「行間」を読める自信のある方には是非読んでほしいけれど、それ以外の方はちょっと、という思いからです。レビューの題の意味がわかっていただけたなら…