『いま、抗暴のときに』は、辺見庸の所謂「抵抗三部作」の第2作目に当たる。“抗暴”とは、「自由のための持久的な抵抗を端的に表わす名詞」が日本語にないため、「反動的な暴力に抗い、反撃するといった意味」である中国語から借用し(『抵抗論』)、アメリカ等によるイラク侵攻などの理不尽、不条理な暴力や殺戮に対して、抗いの言葉を鋭く放っている。
さて、辺見庸の作品群と対峙すると、己の思想性が確かめられる。そして、一般的には、辺見は「左」に位置していると思われているだろう。だが、『抵抗論』でも述べているとおり、彼の立っている位置は不変で、彼の目にする状況が「右」に流れているため、状況に置き去りにされているのだ。そのことが「左」であるかのような幻影を与えている。
彼はまさしく、日本の戦後的な理念といえる「国家からの自由」等を保守しようとしていることからも明らかなごとく、「戦後民主主義」の申し子である。そういった脈絡で、彼が前掲書で語ったように、極めて“保守的な人間”であり、そのパラドキシカルな“保守性”の故に、佐伯啓思的なコンテクストで措定すれば“ラディカル”なのである。
私にとって辺見庸は、己自身を映す鏡でもある。さらに、彼は「右」傾化するこの国において「沈黙と傍観」を峻拒し、戦後の特殊日本的な価値を称揚賛美する側、幻影的ではあるが「左」側の“重し”の役割も結果的には果たしている。この“重し”の意義を想到すれば、彼の論理や感性に多少の偏向や逸脱があっても、私は辺見を受け入れたいと思う。