高校生のとき、重い病を患った同級生の自殺が、私のナイーブな生命観を根本的に揺るがした。そのときの底なしの不安感、大人や同級生たちの対応への説明できない嫌な感じを、私は見極めることができなかった。怖い、避けたいと思いつつ、私はそれを機会に教職から看護職志望に進路変更した。自分でそれを見つけないかぎり、私は安心して生き続けることができないような、そんな気がしたのである。
助産師として「生命誕生と死」に直面し、私はまたしても自らの未熟な生命観に挫折感を覚えたが、その自覚すら、患者や母親として体験したことに比べれば未熟なものだった。
現在住んでいる米国で、私は憑かれるように「生誕と死」に関する情報を読みあさった。クローン、遺伝子診断、生殖補助医療、臓器移植……。詳細は書かないが、それら生命科学の恩恵を受ける可能性がある立場として、賛成なのか反対なのか、利用する前に自分の立場を知っておくべきだと感じたのである。
しかし、これらの問題の難しさは、知れば知るほど、真摯になればなるほど、「賛成」とも「反対」ともいえなくなるところである。私はまたしても高校生のときの「見極めることのできないもどかしさ」を感じた。
「いのち-生命科学に言葉はあるか」は、筆者の最相葉月と12人の各分野の専門家との対話である。本書の優れた点は、哲学者、生命科学者、宗教学者、発生学者、医師、遺伝性疾患の発症リスクを持つ歴史学者など、異なる立場の専門家から“専門家という「立場」を離れた「人」としての言葉”を引き出そうとしたところにある。この本には、私が見極められなかった言葉がたくさん詰まっていて、「あぁ、私はこう感じていたのだ」と納得することができた。
迷うことの大切さを知るためにも、大人だけでなく、「いのち」を見極められずにいる高校生たちにぜひ読んで欲しい本である。