エルフィー・ヒンターコフは、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した「
夜と霧 新版」で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメリカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にフォーカシング技法の祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。
厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。
前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。
スピリチュアリティという言葉を安易に使うと、日本のカウンセリングの世界では、オーソドックスな専門家からはそれだけで少し安っぽく見られる傾向がある(一般の方からすると驚かれるかもしれないが、「高尚」にはみてもらえない)。しかし、欧米では、クライエントに、性に関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくないが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。そして、カウンセラー個人の信仰と全く相容れないことをクライエントさんが語り始めた時の葛藤は、日本人には全く想像もつかないくらいに根が深いらしい。
それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。そして、「重要なのは、イエスと私がどんな関係にあるかということなんです」「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」などということがカウンセリングで真摯な悩みとして語られることも少なくないらしい。
こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)"と"spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。"religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。
このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。
そのような、日常のすぐそばに、誰にでもある、ささやかなこころの癒しの世界への、フォーカシング技法を媒介とした手引きとして読む時、本書は身近な本になるであろう。