この小説の語り手は人間ではない。
あるときは足の裏ばかりを注目する低い視線になり、あるときは“家事導線”なるものによって家の展開図そのものになる。
小説が人間によって人間のためにだけ書かれるものだと思い込んでいる人にとって、この小説は「?」の塊か苦痛以外の何物でもないことになってしまうだろうけれど、それは小説が個人の悲しみや喜びを書くものだと思い込んでいるその人が悪い。きっとそういう人たちは、カフカもガルシア=マルケスも深沢七郎も読んだことがないのだろう。
小説というのは自分のサイズで判断するようなちゃちなものではなく、読者として努力してその世界に接近するものだ。こういう小説を書く人が日本にもいてくれることが僕は心からうれしい。