700ページ、十五章(15ラウンド)に及ぶ<寺山・小説>×<森山・写真>のタイトルマッチ(と言っても、その関係性は“ガチンコ”と言うよりも、寄り添うような、本書の新宿新次、バリカン戦のアニキ・弟分関係を想わせる)。寺山は「あとがき」でこの小説の意図をこう記している。「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すこと」。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズのコラージュによって垣間見る「もう一つの世界」。そして森山の写真もまた同様のコンセプトを持つ。日頃見慣れた風景の羅列が「もう一つの世界」を垣間見せてくれる。森山が「あとがき」で「寺山さんのレトリックやメタファーやドラマツルギーのほとんどがぶち込まれていて、他に類のない長篇叙事詩」と評しているが、「あゝ、荒野」はまさに、寺山修司の集大成、“寺山ミュージアム”といった趣がある。
概要は2人の「あとがき」の通りなんだけど、この面白さは、勿論700ページを「見て」「読んで」はじめて味わうことが出来る。
「荒野」とは何か?それは、“真っ暗な口のなか”であり、“一望のネオン”である。都市の荒野、ニキビの荒野、「非政治化」の荒野、性の荒野、シーツの荒野、四畳半の荒野、酒場のカウンターの荒野......、荒野は時と場合でその姿を変える。そして、荒野で生きていく人々は、誰もが拙く人との関係性を紡ぎ、自らの存在を確かめる。それは盗むことで人から憎まれることだったり、殴り倒されることでのっぴきならない関係を得ること、だったりする。その悲しさって今でもリアルだ。
寺山のアフォリズムの数々は40年が経った今でも錆び付いていない。それどころか当時よりもさらにディスコミュニケーションが進行する現在、その洞察力、彗眼はますます存在の重みを増しているように思う。