妖怪譚を楽しく読んだ。
昔の人は妖怪を信じていたと思う。実際に妖怪が居たかどうかは大した問題ではない。妖怪を信じるという知性があったことが大事だ。
妖怪は非科学的であり存在しないと現代の僕らが単純に考えたら、昔の知性を見誤ることになる。昔の人にとっては妖怪の存在とは「科学」だったはずだ。妖怪の存在を設定することが物事の科学的説明になっていた時代があったということだ。
例えば、日照りの際には竜という妖怪を設定し、それを祀ることで雨を祈願する。雨が降らなければ竜への祈願が足りないという科学的判断を行い、生贄を捧げる等の対応策が取られる。
若しくはある家の興隆が座敷わらしという妖怪の有無によって理解される。座敷わらしが居なくなったことで、その家は没落したと状況を整理する。
そう考えることは合理的であり、考える力は知性に溢れていたに違いない。物事はなんらかの形で解釈され整理されるべきだと考える点では昔の人も現代の人も同じ水平線上にいる。
但し本書はそんな「民俗学」或いは「哲学」で読んではいけない。著者が「あやかし」の中で何をつかみ上げようとしてきたのかをゆっくり眺める作業こそが本書の正しい読み方である。
著者が取り上げる主人公は、此岸と彼岸の境界線に立っている人間たちであることが多い。人間の社会が此岸であり、妖怪が息づくのが彼岸である。主人公たちの、その境界線での「立ち姿」はいずれも美しい。足は此岸にありながらも顔は彼岸を向いている。波打ち際で足が波に洗われながら 水平線を見ている後ろ姿に似ている。人には見えないはずのものが見えてしまっている主人公達の視線のありようが本書の心臓部である。
各主人公達の行く末を著者は最後まで書き込まない。それがなんとも言えない読後感に繋がっている。読者はなんとなく宙吊りにされながら、本を閉じることになる。但し、主人公達の立ち姿はくっきりと残る。
そういう本だ。