鈴木清順は、日活時代数多くのプログラム・ピクチャーを量産した後、67年、37本目の作品として「殺しの烙印」を発表、当時の日活社長の堀久作から「訳の分からない映画を作る」との理由で一方的に日活を解雇され、更にその監督作の総てが門外不出で封印されてしまった事から、「鈴木清順問題共闘会議」が組織されての泥沼の裁判闘争、以後長期間に渡って映画が全く撮れなくなった。
(余談ながら、その時の原告弁護団のひとりが、人権弁護士としてシャキッとしていた頃の現民主党代議士の仙石由人である)
80年、無頼派プロデューサーの荒戸源次郎と組んだ「ツィゴイネルワイゼン」が、東京タワー下の仮設のドーム型の映画小屋に掛けるというユニークな興行形態で話題を呼ぶと同時に、日本映画史上に残る摩訶不思議で刺激的なそのアート・フィルムは、同年の各映画賞を総なめし、あろう事か、清順的芸術世界とは無縁であった(と言うか黙殺されていた)映画業界が起こしたお祭りイベントである「日本アカデミー賞」までも獲ってしまい、映画作家として世俗的に遅すぎた名声を得る事になるのだが、今作は、それから遡る事3年の77年に10年ぶりにメガホンを撮った映画、前述の極めつけのカルト作2本を挟む形で位置する鈴木清順70年代唯一の作品、一部で待ち望まれていた初DVD化作品だ。
某大手繊維メーカーが、体操界の花である東欧の妖精を専属タレントとして狙いを定め交渉するも、ライバル他社に抜かれてしまう。なんとか劣勢を挽回しようと次なる“広告塔”として目を付けたのが、新進気鋭の美人ゴルファー桜庭れい子だった、、、。
原作は梶原一騎だけに、中盤まではスポ根的劇画世界に大映ドラマの如き過剰でおどろおどろしい人間描写が続く。
ゴルフ雑誌の編集長ながらまるでゴルフがド素人の原田芳雄。
「巨人の星」の星一徹の如きスパルタ練習を科す佐野周二。
主人公れい子を追いかけまわすストーカー女の江波杏子。
同じくれい子の行き先々で絶えずドッキリの看板ならず、花束を抱えうろうろする野呂圭介。
「警部マクロード」みたいな扮装で登場する警部・宍戸 錠。
登場人物はみなどこかヘンであり、ここら辺までは、鈴木清順というよりも増村保造監督作と呼んだ方がしっくり来る(笑)。
それでも、清順監督らしい部分は終盤を迎えて加速していく。
江波杏子の、れい子への暴走ぶりに歯止めが効かなくなり、ドラマの展開も暴走していく辺りからのケレン味の数々。
益々異様になっていく登場人物たち、不遇時CMディレクターとしても活躍していた事が垣間見えるような色彩、カット割りと映像処理、そして、れい子の大邸宅の奇ッ怪なセット・デザイン。
真ん中にラインのペインティングを入れて上半身裸でコースのフェアウェイを掛け廻る原田芳雄。
桜の満開の下で、れい子の弟が夢想する思慕と接吻の微妙な危うさ。
クライマックスは、近所の老若主婦連中による嫉妬と悪意が剥き出しになっての大乱痴気パーティ。
名コンビである木村威夫はタッチしてないけれど、その感覚は清順映画そのものだ。
正直、結末は凡庸だし、社会風刺もありきたりで、脚色の大和屋竺は(残念ながら、今作の後、彼は病死してしまったが)、今作のプロデューサーでもあった梶原一騎に気兼ねしたんだろうか?と思えるほどで、公開時は怪作、珍品との評価もあったと記憶するが、それでもやっぱり清順映画として、ファンは押さえておかねばいけない作品なんだろうと思うよ。
主演の白木葉子は、梶原一騎がご執心の新人モデルであり、今作が映画デビュー作であった。
マスメディアとスポンサー、視聴者に踊らされ堕ちていく女性の役柄だが、初見時は学芸会並みと思えた演技も再見するとそれほど気にはならない。というか、これも清順さん、逆手に取って狙ってるんじゃないか、とさえ思えてくる(笑)。
松竹提供の「あの頃映画」も続々と初ソフト化作品が増えて来て、“あの頃の”映画たちを熱心に観ていた世代には嬉しい限り。
今後は、山根成之の「突然、嵐のように」や「さらば夏の光よ」も是非お願いしたい処だ。