昨日あたりから、特定の裁判での判決を巡り、「裁判員制度」について今さらながらああだこうだと騒がれていますが、私のようなド素人が「裁判」を知るにあたっては、大岡昇平が書いたこの映画の原作ほど、最適な本はありません。「裁判」を俯瞰しながら、「人が人を裁く」ことの意味を考察した小説です。原作を読むのが面倒な人が、映画を見ることで代替するケースも、無きにしもあらずですが、これに関しては、原作でなければ絶対ダメ。映画の方は、情痴事件というシチュエーションだけをことさらクローズアップして、甘ったるいメロドラマに作り替えた、薄味の凡作です。
文学を映画化するのはいいですけど、ストーリーだけ戴いて「文芸映画」などと名乗らんでもらいたいですね。俳優の演技とか画面作りとか、映画には映画でしか出せないパワーもあるんだから、それを実現してほしい。たとえば、同じ大岡原作の「野火」などは、原作を、映画独自の世界に置き換えています。パゾリーニの「豚小屋」には、あれに触発されたと思しき場面がいくつも出てきます。また文学の映画化作品がメロドラマ風になったからといって、必ずしも悪いわけではありません。「ベニスに死す」などは、その成功例です。結局は、作る側の、志の問題でしょう。
メロドラマも含む「映画の大衆性」に関しては、世間一般に「大衆向けの娯楽映画」と「インテリ向けの芸術映画」に区分する向きもあるようですが、それって、どうなんでしょうか。脚本家の依田義賢さんは、著書「溝口健二の人と芸術」の中で、こんなエピソードに触れておられます。依田さんが「面白いものを作りましょう」と言うと、溝口健二から「重厚な芸術を」と返され、今度は「芸術映画ではいかが?」と問うと、「映画は大衆の娯楽です」と返される。「大衆娯楽にも芸術にも、どちらにも色分けできないのが「映画」だ」ということではないでしょうか。作った人がことさら「これは大衆映画だ」なんて言ったりするのは、その映画が「何らかの主義主張の、大衆向けプロパガンダである」という宣言にほかなりません。もっとも、「プロパガンダ」というのは、時間が経つと「ファンタジー」になってしまう場合が多いようです。出来が良ければ、それはそれでまた楽しいですけど。