あだち充は不思議な漫画家だ。あれだけ長く第一線で活躍しながらも一時代を築いたという印象がない。80年代には80年代の、90年代には90年代の、00年代には00年代のあだち充がいるのだ。本書はファン歴24年という著者による、ほとんど初となる本格評論集だ。
本書が評論の鍵概念として用いるのは「イリミネーション」。すなわちあだち作品における削除の効果である。あだち作品に頻出するあの独特の「間」にしろ、語りすぎないセリフにしろ、それらはみな読者各々に想像を促す余白として機能するのだ。さらに作者が突然割り込んでくるあの演劇技法でいうところの「異化作用」が一体となり、熱すぎるスポ根や他の語りすぎる野暮なラブコメとは一線を化す独特なあの世界観を醸成するのだ。
ただ承服しかねる部分もあり、例えばあだちが群馬出身であることから展開する県民性の議論は我田引水の感は否めない。特に同じ群馬出身の某バンドとの共通項をさぐる箇所はかなりどうでもよくなってくる。また、あだちと落語の関係も語ってほしいところだった(あだち作品の構造は落語に通ずるものがあるのだ)。
評論家のササキバラ・ゴウと精神科医の香山リカへのインタビューも収録されている。なぜ後継者が生まれないのかの問いにササキバラが、あだちの扱うのが「文体のようなもの」だからではないかと答えているが、本当にそうなのかもしれない。
ただ残念なのは、本書ではあだち作品の図版がただの一枚も転載されていないのだ。これはおそらく“大人の事情”というやつで、著者ではどうにもならないことだったのかもしれない。だが漫画家評論である以上、漫画のコマは小説家なら文章の引用と同じくらい不可欠なはず。それだけにあだちの作品を持っている人でない限り、著者の字面での説明で想像を喚起するしか術はなくなってくる。この点で出版社には寛大な心を持ってほしかった。なによりも図版さえあれば、BO'WYとタッちゃんの「中性的」が、まったく別物であるというのがわかるのだから。