先日私は、このCDを台北から来日したS氏にお渡しした。S氏は、今静かな話題を呼んでいるドキュメンタリー映画「台湾人生」(酒井充子監督)に登場する五人の台湾日本語世代のひとりだ。現在、彼は八四歳になるが、今なお台北の「二二八紀念館」で日本語の解説ボランティアを勤めている。私は、五月の末にそこでS氏に出会い、長時間に渡って話を伺うことが出来た。
S氏は旧・帝国陸軍に志願し、ビルマ戦線で戦い、九死に一生を得た。戦後は、新聞記者として「二二八事件」に遭遇し、台湾に敗走してきた国民党軍に逮捕されたが、かろうじで死を免れた。そのような苛烈な体験から、映画の中では「…私は日本人としてビルマで戦った。しかし、日本政府からは何ひとつの言葉もない。たった一言、”ご苦労様でした”と言って欲しい。」と憤る。「シナ兵のように、カネをくれなどとは言わない。一言”ご苦労様”とだけ言って欲しい…」と。
映画の中でS氏は、台北の自宅でくつろぎながら、戦前の戦時歌謡の歌詞を整理する。これを見た私は、彼と再会するときには、藍川由美のこのCDをプレゼントしようと決意した。そして、上述のように、彼との再会の日、私はこのCDをお渡しした。
藍川由美は、何故、忘れ去られつつあるNHK国民歌謡を採譜し、自ら録音したのかをライナーノーツに詳しく記している。戦争と共にあったNHK国民歌謡を「歴史として記録する」ことが使命だと考えたからに他ならない。
藍川の歌は、戦意高揚の音楽につきまとう過剰な高揚感を排して、楽譜に込められた純粋な音楽のみを掘り起こそうとする。たとえば「海ゆかば」は、大友家持の歌詞がくっきりと浮かび上がるように、細心の注意を払っている。これを聴けば、この歌が「右翼の歌」などではないことがはっきりと分かることだろう。
すべてピアノ伴奏のみのクラシック歌曲スタイルの歌唱・録音。それが、それぞれの歌が持つ個性、力が浮かび上がらせる。
S氏が勤める「二二八紀念館」は、偶然にも日本統治時代にNHK台北放送局の局舎だった建物だ。日本の台湾統治を巡って、NHKスペシャル(「アジアの”一等国”」)が引き起こした歴史認識の問題を考えると、何か因縁めいたものを感じてしまう。藍川が「歴史として記録」しようとした同じ作業をNHKは果たしてやっているのだろうかと…。