市民としての科学リテラシーを身につけることを目指した本。「科学リテラシー」とは,(自然)科学に関する情報の真偽や有用性を選別し,自分の意見を形成して議論に参加できる能力のこと。この能力を専門家が有するのは当然だが,非専門家(市民)が科学リテラシーを身につけることにも独自の意義がある,というのが本書の主張である。
科学の議論をするためには,科学の方法論を知る必要がある。本書は2部構成だが,第1部ではこの「科学的思考とは何か」についての基礎的な説明がなされている。一般にこの種の議論は,疑似科学を批判したり,科学と非科学を区別したりする文脈で行われることが多いようで,本書もその延長線上にある。だから疑似科学関連の解説書を読んでいる人にとっては有名なトピックも多く紹介されている。しかしたとえば,
・なぜニュートンは偉いのか?(pp.58-)
といった問いかけなどは,科学という営みについて考える際の,簡潔にして的を射た問題提起であると思われる(ちなみに「万有引力を発見したから」というのは答えとして不十分)。仮説演繹法の説明(pp.104-)も分かりやすい。
本書の後半,第2部での著者の主張は,大枠としては
1. 科学・技術(以下まとめて「科学」)では解決できない問題がある
2. このような問題は,専門家だけに任せておけない
3. だから,科学リテラシーをもった「市民」による専門家の統制が必要である
4. したがって,専門家でない者も科学リテラシーを身につけた「市民」になるべき
ということになると思うが,よく考えるといろいろと突っ込みどころがある。たとえば「専門家に任せて失敗した例」として本書が挙げるのが,イギリスでのBSE問題だ(pp.206-207)。しかし仮にそうだとしても,だからといって「市民が統制していれば防げた問題だ」とまでは言い切れないだろう。「十分に」統制していれば防げたはずだと言うのならば,それは結果論とどう違うのだ,という議論になりかねない。
とはいえ第2部の分かりにくさについては,著者の能力というよりもむしろ問題自体の困難さに由来しているとみるべきで,読者に「立ち止まって考えさせる」という点では有益である。少なくとも,読者を意図的に誤解させるような不誠実な記述はみられない。このほか,主観的な感覚として排除されがちな「安心」という概念を,客観的・分析的に捉え直そうとする試みなどはとても興味深い(pp.253-260)。
本書は東日本大震災や原発事故を踏まえて書かれたものだ。類書としては,
(1)『
もうダマされないための「科学」講義』
(2)『
科学的とはどういう意味か』
などがある。(1)は複数の論者による共著。本書よりも実践的・発展的な話題を取り扱っている。ただし各章の出来には差がある。(2)は本書よりもやさしい内容の本で,エッセイ風に書かれたもの。本書第2部と重なる部分が多いが,問題への接近の仕方が独特で,本書が抱えてしまった問題を巧みに回避している。