「江戸前の魚がうまいなんて、冷蔵庫の無かったころの話で、鮮度以外に江戸前の魚が特別な理由なんか無いだろう。」と、評者は大ざっぱに考えていたのだが、少し間違えていたようである。
西は多摩川から東は江戸川に挟まれた東京都内湾の入り江が、昔からのの江戸前の定義である。日本の数ある入り江の中でも、この入り江ほど多くの川が流れ込むところは他に無く、山々の恵みが豊富な植物プランクトンとなり江戸前には流れ込んでいるそうだ。その植物プランクトンを食べるのがアミなどの動物プランクトンで、それを主食とするのが鰺やハゼなどの小魚で、さらに小魚を食べるスズキなどが浅瀬まで回遊してくる。
この汽水域の豊かさは、日本国内でも群を抜いたものであり、かつて東京湾の漁獲高は単位面積当たりで日本一であったそうだ。知らんかった。
また、栄養豊富な江戸前では、アジやイワシもふっくらと育ち、外洋に面した相模湾では脂がのらないアナゴも、東京湾の夏場の天然ものは養殖ウナギと変わらぬほどに脂質を持つという。
ビルに埋まる東京の街からは想像もできぬが、江戸前の魚の味を別格にするのは恵まれた自然環境だったのだ。
東京都内湾は昭和37年に東京都と漁業組合の合意で、補償金と引き替えに漁業権が放棄されている。その後、江戸前の海は急速に埋め立てが進み今にいたるが、東京湾のスズキの漁獲量が日本一なことからも、依然として豊かな海であると考えられている。
海洋汚染も改善した今、せめて垂直に造られた護岸に、傾斜をつけるなり浅瀬を造るなりすれば、江戸前の海も捨てたものじゃない、と船宿の親方は語っている。
藤井氏の文章は饒舌である。本書は話好きのおじさんの喋り言葉を、そのまま文章にしたようなものだ。理路整然という分けにはいかぬが、江戸前料理の起源、伝統的な漁の方法、現代までの江戸前の変遷など、これでもかと蘊蓄が詰め込まれており、読んでて楽しい。