個人的にむかつくことがあったので、「阿部さん、教養っていうくだんねぇものは、いったいなんなんすかねぇ!?」という思いで本書をとったのだが、とんだ期待はずれだった。
というのもこの本、「『教養』とは何か」とかこつけた、実は全く別の本なのである。この本にタイトルをつけるとするならば、作者がこの前に書いた本にならって『「世間」とは何か2』でよかったはず。それぐらい、教養自体について述べられている箇所は少ない。それは、教養の論述からそれて別の話題に、といったレベルではない。むしろ逆に、世間を論じたついでに教養について、中盤の方でちょいちょいっと書き足されている、といった具合か。
一瞬マジで、表紙と本体ののり付け作業の段階で、誤ってちがう本の表紙がつけられたのか?、とさえ思った。ここまでのタイトルと内容の乖離に出くわしたのは、『
「自己責任」とは何か (講談社現代新書)』という本以来である。
内容面においても粗雑なところがある。ハーバマスなどの公共圏の理論を引用する箇所があるのだが、僕はこんなの初めて見た。ある節が、始めから引用文で始まるのである。これでは、なぜ筆者がその文章を引用したのかもわからない。このように注釈も説明もなくいきなり引用されてしまうと、ハーバマスにすれば、「俺に丸投げかよ!」という話である(たぶん本人は知らないだろうけど)。
だがそういいつつも、教養について知るにはまぁ事足りるといった本ではある。市民社会の成立に従い、個々人が分断された後に、「いかに生きるべきか」という実存的な問いが浮上した。そのときになって、文学などの古典作品の中にその答えを探そうとしたのが、狭義の「教養」主義者、である。しかし、時代が下るとともに、徐々にその意識は形骸化していき、知識を得ること自体が自己目的化していった、というのが現状だと言える。
冒頭に書いた僕のむかつきの原因というのは、そのような形骸化した教養主義と固有名の知識をひけらかす人間と、そのエピゴーネンたちの話を間接的に聞いたことだ。どこの学校、会社にもいると思うが、映画やなにやらについての知識だけは豊富で、そのこと“のみ”においてふんぞり返っているどうしようもないやつらがいる。さらに、そのエピゴーネンの中には、知識すらなくて、知識があるふりをして、のうのうと生きているやつもいる。
そういうやつらには、「いっぺん教養主義の本道に立ち返って自分の生き方考え直した方がいいんじゃない?」と言ってやりたい。
そういう人たちは青D社とか、そういう会社から値段の高〜い、だ〜れも読まないような本を出して悦に浸る。それに比べるとまだ、講談社現代新書のような「多くの読者に向けた本」を書いているだけ、阿部さんのほうが数倍マシである。