本書は愛国心育成を柱とする教育基本法改正の動きを、改正により予想される事態のシミュレーションを行うことによって批判する内容。
まず著者は改正派における教育への過剰な期待を指摘し、その試みを失敗必定と断じる。だが問題はその先で、この失敗が事大主義の悪循環を生じ、教育現場の窒息と荒廃を招くと論じる。この辺りの議論には、戦前の皇国教育に関する著者の研究が活かされていると感じる。
さらに著者は、改正派が依拠する国民共同体論を、今後の日本の針路から批判する。国民国家システム時代の終焉、東アジア諸国との連携・統合などを考慮すれば、「正しい国民」を一元的目標とする教育は得策ではない。
こうした批判の上で、著者は井上達夫らを援用しつつリベラリズムの立場を打ち出し、これを《愛国心》と名づける。さらに教員の多様性を確保して現場を活性化・重層化しつつ、高校段階を目安に現実政治を考えさせる教育を推進すべしと提言。
で、私の疑問。そもそもリベラリズム批判として登場した諸思潮に社民的リベラリズムで対峙するのは、所詮一つの決意表明に止まるのではないか(もっとも、「日本の教育は現状で概ねうまくいっている」が持論の著者は、同様に「リベラリズムは概ねうまくいく」と主張するかもしれない)。
また著者は「君が代・日の丸」に抵抗できなかった教員を「私生活主義の挫折教員」か「従順で真面目だが卑屈な教員」と決めつけるが、これは裏返しの「教育への過剰な期待」ではないか? 高校での政治教育の提唱についても、保守派を現場的リアリズムから批判しながら、自説の展開では楽観的に過ぎる。私としては、まず著者の現場である大学で必須科目化し、入試改革も行うべきではと考える。
最後にもう一言。著者は大内裕和の「『戦争のできる国民』づくりとしての国家主義」というフレーズを「左翼アジビラ的で私は好きではない」(p14)と評するが、好き嫌いはともかく、アジビラ的と貶められるべき表現ではないと私は思う。「私」を超える価値を立てるか否かは、死の問題に直結する。愛国心という踏み絵は、「あなたは国のために死ねるか?」と問いかけている。