「患者様が医療を壊す」というタイトルに惹かれて読んでみましたが、内容は著者の医療に対する雑感を幅広く論じる内容です。医学以外の雑学に広く通じていることと早口で甲高く喋り続ける16ビートの文体が著者の魅力と感じました。マスコミ批判されていますが、医師にしておくにはもったいないくらい、かれら(メディア人間)と同じ嗅覚、感性の持ち主であるように感じました。
第2章以降はご自身の経験や感性を活かして、大変分かりやすい議論に落とし込んで論じられていて楽しく読ませていただきました。雑談のように話があちこちにピョンピョン跳ぶのですが、これがかえって文体に勢い、リズムを与えています(文体は著者が尊敬する 内田 樹氏の影響を感じます)。
ただ、第1章の「医師患者関係」や「お医者さんごっこ」の主張には“若さ”を感じました。内田 樹氏の評にもあったように、多くの矛盾を垣間見ることができます。「世界は相対的なもので、絶対的な正しさは存在しません」、しかも「世界の相対性を理解しているだけでは対立構造は消えてなくならないようです」。だから「お医者さんごっこ」をしましょう!ということなのでしょうか?
対話を行う理由は「私の正しさに自ら疑念を持ち、どうなんでしょう?と相手に問うためにある」と謙虚な姿勢の重要性を強調する著者ですが、本文の自己主張の表現には、そうした「世界の相対性」を強く意識した慎重な言い回しは影を潜めているように、私には感じられました。
さらに以下のような表現はどのような文脈で用いたとしても、多くの誤解を招く表現ではないか?と深く憂慮しています。
「『医師と患者は対等であるべきだ』という幻想を捨てるのが大事」、あるいは「患者中心主義」という幻想、「私の大嫌いな患者を全人的に診るという表現」「医師は患者に対して、嘘をつかねばならないのです」などの表現です。
臨床歴30年を迎えた私は「医師と患者は対等である」と心から思って診療しています。そして、患者さんと「ごっこ遊び」をする気持ちには到底馴れません。医師は「病気の専門家」ではありますが、患者の人生については無知です。一方、患者は自分の病気の生物学的意味については素人かもしれませんが、「自分の人生の専門家」であり、自分の病気の体験者なのです。それ故、私は医師と患者はお互いの「専門性」を発揮しながら協力して、疾病の治療をしていきたいと願っています。
著者と同様、私も2項対立、すなわち直線的認識論(ちょうど数学のように、すべての事象の正解はひとつだけなので、互いの正当性を主張し合って決着を付けるべきだという”西洋合理主義”)に異を唱える者の一人です。しかし、私はそれだから「お医者さんごっこ」をするしかないとは思いません。私は「絶対相対主義」を唱える社会構成主義の実践をめざしています。この世界観では「真実は社会的に構成されるものなので絶対的な真実は存在しない」「人は真に客観的な立場に立つことができない存在である」と考えます。それ故、相手の依って立つ物差しを理解することによって、より発展的な対話、発展的な関係構築を求めていこうと考えます。著者の記述もそのような指向に基づいていれば、もっと読み手の共感を得られたのではないでしょうか?その点が残念です。
もしかしたら、著者の「お医者さんごっこ」という提案は、医師ー患者関係をうまく構築できない研修医などの入門者を仮想対象にしているのかもしれないとも考えてみました。しかし、著者は同時に患者さんにも適応を求めているのです。この「お医者さんごっこ」というファンタジーの世界ではとにかく「医師を素晴らしい、頼りがいのある医師と信じて演じましょう」と。このような表層的な医師ー患者関係で満足できる患者さんはどれほどいるでしょうか?慢性の病をもって生きていくことは「お医者さんごっこ」を演じられるほど、単純なストーリーではありません。自分の思いを、苦しみを全存在で医師に訴えたいという願望をもっている人もたくさんいると思います。
きっと著者がこれから多くの臨床経験を積まれて、もう一度「医師ー患者関係」について執筆されるときにはきっと「お医者さんごっこ」から脱却され、さらに大きく飛翔されていることを期待したいと思います。そのためには、先生がお読みになったという構造構成主義の哲学、思想書を実際の臨床で実践されることだと思います。観念的に思念する段階から目の前の患者に適応され、その体験を積んでいただきたいと思います。そうなれば、もう鬼に金棒だと思います。
少し厳しいレビューになってしまいましたが、私は先生の不断の努力、高い向学心、向上心をとても高く評価しています。さらに「難しい事象をわかりやすい話に落とし込む天才的才能」にも脱帽しています。益々のご活躍をお祈りします。