無脳論を提唱した大森荘蔵は、そのことを端的に心などはなく環境に埋め込まれているといったことがある。
著者は、近著でアフォーダンス(動物の行動や生態と相対を成している環境の側の生態学的特性)及び熊谷晋一郎(脳性マヒの小児科医)の身体外協応構造等により具体的で説得力ある裏付けを行った。
大森は、心などと呼ばれているものは乳児期に始まる「私秘性」によるという。
我・同一性・二分法・主客・経過する時間・空間・因果もまたその結果である。それは、世界が分割され意味が生じることでもある。そして、それは現代人にとって生きる前提となっている。
「一・全」であったものが「多」となる。禅では、二人連れという人がいる。
(大森は、原始の執着しない差異の段階に止まるべきという考えである)
この問題に禅仏教はどう対処しているだろうか。
仏教は、二項対立を嫌う。父母未生以前をいい無我、無執着、没蹤跡などという。
但し、言葉だけでなく実行するとしたら座っている椅子を外すようなものだろう。
そこで、「成り切る」ということをいう。
これは、無我夢中など日常生活の中でも時折現れる。但し、一時的に我を忘れるもので直ぐに元の木阿弥となる。
禅は、座禅により「動」を絶ち(動かない運動)座禅に成り切る。座禅が座禅をする。
西田幾多郎が「場」とか「絶対矛盾の自己同一」と哲学的に表現したものであろう。
動的構造としては、華厳で事々無礙(物となって見、物となって考え、物となって行うー幾多郎)という言葉がある。
両者の違いは、荒川修作のいう経験のプロセスの中でその都度出現する「躊躇」(通常、意識と言っている)があるかないかであろう。また、運動と躊躇は相互隠蔽の関係にある。
そして、人工的ともいえる座禅に対して動禅もある。日常生活の中での禅である。
恐らく、動禅とは座禅に比して環境からの働きかけにより躊躇(身体外協応つまり無我となる回数)が頻繁に起こり易いのではないだろうか。人は、経験によって変わることが出来る。
「自分探し」は、無いものは探しようがないということである。
それは本来、既存の環境の中で自分が居やすい場所を見つけたり、つくり出したりすることである。ということを見切ってしまえば至極当然の結論である。
著者の考察に触発されて長くなってしまった。