本書は、たいした教養のない読者、つまりごくふつうの読者には、敷居が高く感じられるかもしれない。なにしろ「精神史」のことを英語では intellectual history といふくらゐなのだ。その名に恥ぢない。「精神」のエッセンスを、歴史や書物の中から抽出し、醸成させ、さらにそれを薄めることなく提供してゐる。ダンディズムの極みのやうなところがある。
表題作の「『名づけ』の精神史」は、あらゆる意味において「名づけ」に関心のある人にとくにおすすめである。しかも、「熟読玩味」に値する。
たとへば、生まれる子どもにこれから名前をつけようとしてゐる人なら、「人間は一個の名前のもとにのみ生きるのではない」といふ社会史的な認識を通じて、子どもにそれほど凝った名前をつける必要はないと、目がひらかれるかもしれない。
納得のいかない『ゲド戦記』(ル=グウィン)の読者であれば、ブランショの『来るべき書物』における「名づけ」についての考察などとも併せて読むことで、第5巻のテーマがわかって、いくらかすっきりするだらう。
「名づけ」とは、本来「名づけえぬ」はずの物事と関係を結ぶ、魔術的とすらいへる行為である。しかし、さうやって「実体化」された世界は、物事との関係を限定し硬直させてしまふどころか、現代社会においては、関係それ自体の喪失をもたらすことになった。著者は、「名づけ」の原型をさまざまなところから思ひ出さうとする。べつべつに書かれた11篇からなる本書の全体がその試みであるといってもよいのではないだらうか。
ところで、「物に対する哀悼」を基調としてゐるはずの本書には、たしかに不思議な明るさがある。挽歌といふものが讃歌でもありえることを、わたしは思ひ出した。