本書は、人を労働させる「権力」を労働権力とし、これを論理的に位置づけ、それによって実際的な労働問題の要因を説明づけようとするものである。
「はじめに」では、ネグリ/ハートらが社会における労働を所与のものとして論じている点を批判し、社会それ自体の論理(=権力)を俎上に載せるという。ここでの権力とは、単なる一方的な強制力ではなく、フーコー的な意味で使われ、労働を政治的な闘争と読み換える。本書は、政治的活動の条件たる人間の複数性において、歴史的に構築された労働者としての社会的主体性(労働の政治性)と労働者の「生そのもの」(「労動」の政治性)との間の対立から労働権力を明らかにしようとするものであるという。
第1章「労働を巡る闘争を不可視化するもの」では、従来の労働概念を批判的に検討する。労働概念はつねに、過小に定義されるか、過剰に定義されてきた。前者は、資本主義の論理に基づく生産関係に還元された経済活動のことを指し、「生そのもの」としての労働の側面が看過される。後者は、前者の定義に「生そのもの」としての側面が加えられたものである。これらは、社会を所与のものとしているため、社会の論理(=労働権力)を強化しつつ不可視化させているという。
第2章「労働の『政治』性」では、労働の過小でも過剰でもない定義として、job[労働]とlabor[労動]とを区別し、jobについて述べる。ここでのjobとは、近代社会の成立とともにlaborとwork[仕事]との区別が曖昧になったことで誕生する今日の画一的な労働を指す。
第3章「『労動』の政治性」では、laborについて述べる。ここでのlaborとは、「生そのもの」であり、その精神的な側面として「思考」と結びつく。ここでの思考とは、より一般的には想像力とされ、芸術作品を産み出せるだけでなく、自律的な行動原則を形成する自己統治に係る。他方、jobは、「認識」と結びつき、「常識の推論」から社会的行動原則を形成し、人々に労働者という社会的存在としてふるまうように働きかける社会的統治に係る。本書は、社会的統治と自己統治との対立を認識と思考との対立に置き換え、そこで作用する権力を労働権力と位置づける。すなわち、laborがworkと結びつき、社会化することで、思考が認識へと置き換えられ、我々は自律的な行動原則に従うことなく、社会的な行動原則に従わされ働かされているとする。それゆえ、laborの政治性とは、jobによって阻害されている思考による闘争であり、その契機として「芸術」と「心の病」を提起する。
第4章「『過労死』―労働権力の場」では、心の病として過労死問題を取り上げ、労働権力の場として考察する。「おわりに」では、これまでの考察と思考による闘争の展望について述べる。
以下、簡単な批評。
1) 本書における労働は、基本的に物質的労働を念頭においている。それゆえ、非物質的労働についての議論が弱い。あるいは、laborの物質的側面=労動と精神的側面=思考という心身二分法に基づいている点で、近代の論理から逃れられていない。
2) 本書は労働が活動を侵略したと解釈している。しかし、事態は逆ではないだろうか。むしろ、活動が労働の機能を取り込んでいったと考えたほうが、現代における政治のパフォーマンス化を理解しやすいように思う。
3) 本書は、明らかに生政治と関連する議論である。しかし、フーコーやネグリらを引用しているにも関わらず、この点には全く触れず、もっぱら労働に焦点を当てて議論している。意図的かどうかは分からないが、生政治関連の議論が活発な現在を鑑みると、奇妙である。
4) 第2章及び第3章における哲学的な議論は、アレントやフーコーの議論を下敷きにしつつも、著者のオリジナリティが感じられ、興味深く読めた。特に第2章は、アレントの労働論の解説としても読め、有益である。しかし、第4章は、哲学的な議論を現実の問題へと直接的に架橋しており、飛躍がある。あるいは、ただフーコーの規律権力論を過労死問題にそのまま当てはめただけの感がある。そもそも、生権力という観点に立ては、過労死というカテゴリー自体が社会的構築物であるとも考えられる。しかし、本書は、この点は何ら問題としていない。尻つぼみ?