結局、この本の言いたいことは、
「みんなも原発による利益を受けていたのだから、原発事故の責任を東電問うのは、おかしいのではないか」
ということだと考えられる。
小学生であれば、そのような「論点の誤り」に気づかないのは仕方がないと思う。
しかし、大の大人が、そのような「論点の誤り」に気づかないというのは、
常識的な判断能力が欠けているか、あるいは東電を擁護したいという強い思惑がある、としか考えられない。
現在の日本の法律は、泣き寝入りしてきた、過去の多くの被害者の、血と涙の歴史の上に成り立っている。
作者は、小学生と同様、この国が、法治国家であることの認識が欠けているのだろう。
加害者を保護するために、被害者を犠牲にしても構わないという思想は、私にはどうしても理解できない。
現在の日本の法律においては、
原発に限らず、自動車の運転、医療行為、など、
「危険ではあるが、社会的に有用な行為」が、
一方で、萎縮することがないように、
他方で、「有用」の名のもとに、被害者が泣くことがないように、
「過失」とは、
ただ単に「うっかりしていた」といった、「主観的」なものではなく、
結果を予測・回避できるにも関わらず、結果を予測・回避しなかったという「客観的」なものであり、
このような、「客観的な過失」がある場合にのみ、責任を負うこととされてきたのである。
これを東電の場合についてみると、
「原発事故調中間報告」においても指摘がなされているように、
(1)
東電の内部では2008年、従来の想定の高さ5.7メートルの津波を大きく上回る最大15.7メートルの津波が試算されており、そのことは貞観地震・巨大津波を研究していた専門家らが危険性を指摘していたものだ。
にもかかわらず、東電幹部は『そのような津波は実際に来ない』としてきた。
(2)
全電源が喪失しても原発には2、3日、冷却を保つ非常用冷却装置が備わっていたにもかかわらず、作動状況を誤信したり、停止したりしたミスがあり、また、運転員は訓練も受けていなかったため、ミスが重なり、メルトダウン(炉心溶融)や水素爆発まで進んだ。
(3)
3月11日に電源喪失で自動的に作動する「フェール・セーフ(安全確保)」システムにより、1号機に冷却水を注入する非常用復水器の注入弁が閉じた。ところが東電のエンジニアは、この注入弁の自動閉鎖を知らず、それに気付くまで相当な時間を浪費した。また気付いた後も、同原発のコントロールセンターの上司にすぐに報告することを怠っていた。一方、コントロールセンター側も冷却装置が作動していないことを示すパネル表示を見落とし、1号機の崩壊を早めてしまった。
…
など、過失を基礎づける事実は、挙げればきりがないほど多くあり、
東電に「過失」があったことは「明らか」である。
にもかかわらず、
この本においては、
「みんなも原発による利益を受けていたのだから」とか
「東電の社員にも家族がいるから」
といった、小学生レベルの発想に、
大の大人が同調していることが恐ろしい。
殺人事件について、
「犯人ががみんなに利益を与えていたから」
「犯人にも家族がいるから」
といった、理由で
犯人が無罪となるような国にならないことを、心から祈りたい。