子どもたちの最近の(狭い)友達関係は、異様なほど重いものへと変質し、その過剰に配慮を要する「優しい関係」が、「関係性の病」としての新たな「いじめ」を生み出している。著者はそう述べるが、いったい何でそんなことになるか?
今の若者たちは、「個性」を外部からの影響(人間関係、学びなど)で自分が変化(成長)して得られる(掴むもの)とは思えず、自分が生来的に持つ(秘めた)「ダイヤの原石」のごとく感受する。その自分がする、(物事や行為の)善し悪しの判断は、「むかつく」とかの生理的感覚や内発的衝動に従うのが適ったやり方で、社会的基準に従っては自分(らしさ)が抑圧されると感じる。価値があるのは、「善きこと」ではなく「良い感じ」なのだ。
が、感覚や衝動とは刻々変化するもので、普遍的実在であるはずの個性は、確かな手応えでは実感し続けられぬこととなり、焦慮感は必然として日々に募る。で、個性の確証は、(他者には依存しない「自分らしさ」のはずが、逆説的に)親密圏の他者に求めるしかなく、友人や親への自己承認の欲求が高まり、人間関係の重要性(重さ)が増す。求められる(友人との)「優しい関係」は、他者への配慮(思いやり)などではなく、ナルシシズムの裏返し(自己への配慮)であり、互いに自律的たり得ない人間どうしの共依存的な「友情」は、拒まれれば大変なパニックで「いじめ」(など)を生ずる。
著者は、子どもたちの、この社会(外部)に目を向けない有り様が、実のところは社会から煽られて生じたとする。高度成長の時代も終わり、社会化した(歴史的な)視点を持ちにくい変化に乏しい環境下で、人々は物質的豊かさの探求から自分の生き方(自分らしさ)重視へと価値観を変えて、それがそのまま子どもたちに投影した。更に、文科省『心のノート』のような昨今の教育は、先験的に実在すると想定された「自分の心に向き合い、本当の自分に出会いましょう」と説く。
著者がこう展開したとき、著者は触れなかったが、“戦後民主主義的な教育”に(高度成長期の遙か以前から)あった同様な思想傾向に思い至った。子どもたちは、輝ける「ダイヤの原石」を本来誰でも持っているが、受験体制や国、教委、管理職の抑圧が子どもたちの「輝き」を曇らせ失わせるから、本来の「輝き」を絶やさぬ教育実践をしなければならないというような傾向だ。そこに“他者”は十分繰り込まれていたはずだったが、今考えれば実のところ、「ダイヤの原石」は自分だけで磨いたらだめで、みんなと一緒に磨き合ってこそ真に輝くという程のものだった。「輝き」自体をどうやって創るか(そういう教育実践をめざして)、ではなかったはずだ。
戦後民間教育運動に影響を与えた(著名な)、齋藤喜博、林竹二、遠山啓、板倉聖宣など、多くの人たちがこの傾向を持っていたのではないか。現場教師の多くも勿論そこに影響を受けた(惹かれた)。
この傾向のすべてが誤りだったと簡単には言えないだろうが、現在へ重大な影響をもたらしたことは確かではないか。文科省さえ、同じ土俵に立っている。今後の教育のためには、痛みを伴う検討こそ必要だと思えた。