登録情報
|
|
あなたのご意見やご感想を教えてください:
|
||||||||||||||||||||||
|
最も参考になったカスタマーレビュー
108 人中、89人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
福島から考える,
By
レビュー対象商品: 「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか (単行本)
問題提議の書である。福島の「原子力ムラ」がいかに形成され現在もなお持続しているのか、これを中央と地方とムラにおける諸アクターの相互作用の綿密な分析から明らかにしていくのが主な内容だが、日本の近代化と戦後社会と人々の欲望が生み出したものの功罪を批判的に具体的に見つめなおす新しい視座を提示する作品として、非常に読み応えがあった。1984年の福島県いわき市生まれの社会学者が、東大に提出した修士論文をベースに執筆。中央に対する「自動的かつ自発的な服従」。地方・ムラ社会がそれを秩序として受けいれ、原発を「抱擁」していく過程が細かに追跡されていく。原子力というメディアは、当事者たちに「近代の先端」を夢見させ、実際に夢のように喜ばしい経済成長や享楽を与えてくれた。原発があったから、郷土とそこで生きる家族や仲間たちに対する愛を守り育てることができた。気がつけばムラは「原子力ムラ」と化しており、リスクは常に意識されるが、なお原発に対するアディクションめいた信心を多くの人びとは捨て去ることはできない。 「東京の人は普段は何にも関心がないのに、なんかあるとすぐ危ない危ないって大騒ぎするんだから。一番落ち着いてるのは地元の私たちですから。ほっといてくださいって思います」。こうした現地住民の実感のこもった言葉が生まれてくる、「原子力ムラ」の現実を考慮せずに、安易な反原発論を展開するのはいかがなものかと著者は問いかける。原発は危ない。安全のためにはそれを否定しないといけない。だが、人びとのアイデンティティや生活文化が原発と決定的に切り離し難いものとなっているとき、その否定は何か別の大事なものの否定にもつながりうる。激しいジレンマである。 福島における「原子力ムラ」の現場の声と歴史の現実をじっくりと見定め、そうしたジレンマの背後にある権力や支配の構造を徹底的にあぶりだしてみせた本書は、3・11後も「変わらない」社会のあり方を考えていくうえで、必読の一冊となりうると思う。
122 人中、97人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
311以前に書かれた最後の学術論文,
By
レビュー対象商品: 「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか (単行本)
311前に書かれたのにもかかわらず、その説得力や論理が311で全く揺らがなかったという点がまず素晴らしいと思います。 些末な点を挙げて低い評価をされている方がいますが、 「フクシマ」論というタイトルにつられすぎなのでは? きちんと読めば、本書の中でも福島県が一様でないことにはきちんと触れられていますし、 本書の存在が「有害」であるというのは、誰にとってどのように「有害」かがわかりません。 また「アメリカの社会学の文献」が足りないと何が問題なのでしょうか。 研究対象と研究方法に適切な参考文献を選べばいいだけの話です。 戦後の日本における「成長」をテーマにした本書にとって、 必要な文献は網羅されていると思います。 (それこそ「論文」として考えるなら これは「原発」の本ではなく、原子力ムラは研究対象です。) 若い研究者が、狭い学会内にとどまらないで、 少しでも多くの読者に向けて研究を発表するという意味でも、 本書の価値は大きいと思います。 この本が、一過性のブームの中で読まれるのではなくて、 長く読まれ、参照され続けることを願っています。
64 人中、50人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
本当に深く考えることとはいかなることか,
By
レビュー対象商品: 「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか (単行本)
3・11以来、数多の原発本が上梓されてきたが、本書のように近代初頭以降の歴史的背景を視野に入れた浩瀚な社会学的研究はあまりみられないのではないだろうか。それも、フ福島県出身の大学院生である著者が、数年かけて現地調査を行い、原発事故の発生前にすでに修士論文としてこの研究を提出していたから可能になったことである。日本の大地が破壊され、汚染され、多くの人が故郷を追われて初めて、この若き著者の論考が広く世に知られるようになったとしたら、非常に皮肉なことだ。まず本書の射程の広さについてだが、フクシマの原発問題を、戦前・戦中の外部への植民地政策の延長線上に位置付けることが特色だ。明治以来、福島が日本有数の石炭の産地として日本の産業を支えたこと、そしてウランを産出したため、戦時中当地で原子力爆弾の開発が行われたといった事実が示される。そうした中央と地方の関係は戦後になっても多かれ少なかれ同種の構造を保ち続け、「東北のチベット」と呼ばれた福島の双葉郡が、戦後も中央もしくは都市部の国内植民地として戦後成長の源泉となるエネルギーを供給してきたという視座が提示される。福島にしても沖縄にしても、自国内に植民地があるようなものだという実感はかねて持っていたが、歴史的背景から理論的に説明されると非常に説得力がある。明治以来の植民地帝国主義が1945年に破綻してからも、戦争から経済へ、外地から内地へと舞台を移して、構造的暴力の構図は存続していたのだ。 本書がとりわけ優れているのは、「強欲、強引な国策・電力会社・地元権力vs抵抗する地域社会・社会運動」といった単純な二項対立の図式に与しないことだ。むしろ地方の側も、積極的に都市化、近代化への欲望を持ち、原発を積極的に(ジョン・ダワーの言葉を借りて)「抱擁」していたとされる。地方の原子力自治体という意味での原子力ムラと、原子力業界という意味での原子力ムラの利害関係が一致し、原発立地は強力に推進されていったのである。経済的依存のみならず、なでしこリーグに参加していた東京電力マリーゼやサッカーのJヴィレッジに加え、「アトム寿司」や「ブックス・アトム」など、日常生活の至るところに原発がごく自然な仕方で食い込んでいる奇妙な文化状況があるという。しかも今回の人類史上稀な過酷事故が起こってからも、現地の人々は未だにまた原発で働くことを切望しているという報告がなされる。 これはよく考えてみるとぞっとするような事態である。支配とは、支配される者(臣下sujet)が、自ら主体(sujet)として積極的にそれを支えるようになって初めて完成するということだろうか。 ただ表面に現れている状況だけを見るのではなく、その歴史的経緯から問題の根深さを探っていく。本書からは、原発問題にとどまらず、本当に深く考えるとはいかなることかを学ぶことができる。 透徹した問題意識と徹底した現地調査に裏打ちされ、文章も読みやすいが、唯一物足りないとしたら、今後我々が進むべき方向が示されていないことだろうか。もちろん地方と中央の善悪二元論の否定には賛成だし、まず当該地域の歴史と現場を正確に把握することが重要なのであって、解決策まで提示するのは社会学者の仕事ではないのかもしれない。しかし本格的な脱原発派の中には、国が動かないことには限界はあるにせよ、自然エネルギーを産業として地方に根付かせ、地域社会に生きる人々の生活を確保しようという構想もある。もちろんフクシマの事情を誰よりもよく知る著者としては、この問題に簡単な解決策などありえないということを一番伝えたかったのかもしれないが、著者がたびたび口にする「希望」のより具体的な道筋が知りたいと思った。彼はどのような博士論文を書くことになるのか、今後も楽しみにしている。
あなたのご意見やご感想を教えてください: 自分のレビューを作成する
|
最近のカスタマーレビュー |
|
|
|